世代闘争・権力闘争

営業企画部 東田です。

今のこの立場になるまで20年近く、戦いに戦い続けて生きてきました。
元新日本プロレス、Zero-oneの故橋本選手のことを思い出して、ふとそのルーツに思いを巡らすきっかけがあったので。

1994年の武闘派宣言

新日本プロレスの蝶野選手が91年、92年とG1 CLIMAXを優勝。
94年にもG1 CLIMAX優勝。
そこからヒールターンをしたわけですが、その頃私は中学2年か3年生くらい。
とても大きな影響を与えてくれました。
当時、G1男として実力も知名度も確立した蝶野選手でしたが、会社はIWGPヘビー級チャンピオン橋本選手への挑戦権を別の人間(パワーウォーリアー=佐々木健介選手)に与えた。
その時には、橋本選手と蝶野選手のマッチメイクは完了していたが、その前に橋本選手がパワーウォーリアーに負けてしまったら、ノンタイトルマッチとなってしまう。
3度ものG1優勝をした蝶野選手にとって、それは納得のいくものじゃなかったわけです。
力のある若手が、このままでは会社に潰されてしまう。
その焦燥感もあったのだと思います。
そして、新日本とその選手会にたったひとりで喧嘩を売る形で、武闘派宣言となったわけです。
初めて黒の衣装を身にまとって、代名詞である入場曲「CRASH」に変わった蝶野選手が初めて戦ったのが金沢大会での馳浩選手。
血だるまにしてマットに沈めたあの試合はまだ鮮明に脳裏に焼きついています。
一人だった蝶野選手は、海外遠征から戻ってきた天山選手を、そしてヒロ斎藤選手を引き込み軍団を結成していく。
そしてアメリカで席巻していたnWoと手を組んで、nWo Japanを結成、蝶野選手がその総帥となって、プロレスの枠を超えたnWo現象と呼ばれる大きなムーブメントを作っていきました。
この時点で、ヒールではあるが蝶野選手とnWoの支持は絶大なものとなっていました。
今までにないヒールの姿を蝶野選手が作り上げたわけです。

原点は蝶野選手

今やガキの使いのビンタの申し子的存在ですが、私にとっては蝶野選手を見て育ち、今があると言っても過言ではありません。
一般社会人になったそのときから、反体制派として力をつけて噛み付いていっていました。
力をつけた人間が平等にチャンスが与えられないのはナンセンス。
それが根底にあったわけです。
ただ、蝶野選手にあって私にないものは、軍団を統率する能力でした。
一匹狼として奮戦するものの、企業は議会制民主主義ではないにしろ、多数がモノを言うのはそれほど変わらない。
ただ、革命や改革は反対派が出てくるのが当然です。
改革を行えば、今利益を得ている人間を排除することになるからです。
そして、政治的で「穏便に事なかれ主義な人間が上に立つ」のが日本の組織ですし、日本の教育は平均から外れた思考や方針を持つ人間は排除する傾向にあるので、反対派が多く上回るのは当たり前のこと。
選択肢としては、圧倒的な実力をつけて既得権者から権力を奪うか、自分ではじめから組織を作り上げるかでした。
2年前までは前者で、既存の組織の中で戦っていましたが、リスクを背負うのが嫌いな人たちが多いので、無理だなぁと思って今に至ります。
未だ私は軍団を統率する能力があるとは思ってませんが、ありがたい事に1年で2人から20人もの組織に成長しています。
私はずっと反体制派で動いていた人間です。
ですから、今が正解だと思いませんし、もっとよりよいあり方があるだろうと常日頃、頭の中で反芻しています。
社員もまた同様に、正解だと思わずどんどん良い組織運営のあり方を提言してほしいと願っています。

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