コラム
10.272022
メタバースと可能性
取締役の東田です。
メタバースは昔から存在した
昔の私は、かなりの本の虫で1日2冊近くの小説を読んでいたりしました。
頭の中では、文字でしかない情報から脳内のキャンパスに人物や情景を描き出し、動かしていました。
私はその世界を上空から見下ろしていたり、透明人間のように近くでまじまじと覗いている感覚でいました。
自らが体感するという没入感はないですが、これも一種のメタバースの世界ではないかと思う部分があります。
メタバースと死
これまで、伝えたいこと、残したいことを紙に残してきました。
ただ、売れている作家だったり著名な先生だったり、そういう方々が残した書物だけが残っていました。
しかし、現代はIT、技術を使って誰もが簡単に半永久的に残しておくことが可能になりました。
そうすると、ある人物が亡くなったとして、その人物が残したコンテンツが残り続けることになります。
今まで書いているのはあくまで文字や絵、作品のようなコンテンツのことを指していますが、AIにその人物のあらゆるデータを投入して、外見や考え方、アウトプット、喋り方をトレースしたら、物理的な肉体は朽ち果てていきますが、電子の中では生き続けることになります。
「生きる」とは何か、という根源的で哲学的な問題は出てきますけれども。
目の前の存在が生の人間であるのか
テレワークが主体となっている仕事が増加しました。
そうなると会議、打ち合わせや情報交換がウェブ会議のシステム上で行う率が高くなります。
そうすると、話している相手は生身の人間ではなく、ディスプレイに映った電子であるということになるわけですね。
こちら側としては、その話によって必要な情報を入手できれば良いのであって、その相手が生身の人間であるのかそうでないのかは重要なポイントではなくなるはずです。
物理を伴わなければ心理が廃る
合理的で便利なだけではなく、深刻な問題もあります。
新型のコロナウイルスの感染拡大されて以降、働いている人のメンタル不調の要因の50%以上が「テレワークによるコミュニケーション不足」「テレワークにおける孤独感」であるという調査結果も出ています。
要は、人は「生身」の人とのコミュニケーションがなければメンタルやられる率が高くなるということになります。
日本では特に議論にはなっていませんが、メタバースというもののあり方が問われていたりします。
孤独感を味わうことのない、リアルを追求した没入タイプ。
あくまで現実の拡張型であるべきだ。
この2つです。
人類にとってどちらが幸福なのか。
しかと考えておく必要はあるでしょう。