コラム

改革とバックラッシュはセット

取締役の東田です。

平等が陥れる恐怖の幻想

活動の範囲がSNSに及んで、TwiiterやClubhouseで今まで出会うことのない方々と交流を持ち始めました。
SDGs、リベラリスト、フェミニスト、国士などなど
世界が示した社会的課題に取り組む者、個人の権利や多様な価値観を尊重する者、ジェンダー問題に取り組む者、日本国の未来を憂う者。
誰もがこの国を変えねばならんと思っているわけです。
ただ、上記のようなカテゴリー形成が成され、それが社会的正義であれ、マイノリティである以上、改革に進むとバックラッシュが必ず発生します。
それも、メディアを使って笑い物にしたりと、自らの手を汚さずに血祭りにあげるくらいのことすら起こるわけですね。
今まで悠然と権利と自由を享受していた側は、弱者だった存在に同じような権利を保有させることに難色を示します。
理由は至極簡単で、”自分が損をする可能性があると思い込んでいる“からです。

カテゴリーは断絶を産む だから私は狂人

リベラリスト、フェミニスト、国士と先に並べたようなカテゴリー。
この枠組みに組み込まれると、そこから外れた考えを持つのがなかなかどうして難しい。
べき“という言葉の重みが思考や思想すら支配していくわけです。
信仰も先のようなカテゴリーも、私は良いものは取り入れるということだけしている功利主義的な立場をとっています。
だから私はカテゴリーを名乗らず、ただ”狂人“であるとしています。
この効用は絶大で、”他のカテゴリーの考えや理論を理解できて許容することができるようになる“わけです。
ナンバーワンにならなくていい、もっともっと特別なオンリーワン、と口にするのは簡単ですが、自身をカテゴライズした人々からの攻撃は避けられません。

生きる意味など存在しない

産まれも違い、肌も違い、信仰も違い、環境も違い、才能も違い、言葉も違う世界内に存在する1つの種が、何のために生きるかを定義することすら不可能。
むしろ決められていいんですかね、と。
そんなものをカテゴライズされたり定義をされたら、”その通りに従順に生きなければならない“という鎖を両足に着けて生きることになるわけです。
行きつく先が、ガンダムSEED DestinyのDestiny Planになりまっせ、と。
私はそんなのつまらないので簡便です。

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