コラム

震災から12年

取締役の東田です。

あの日あの時

12年前、前職(株式会社ユーネット社)の営業職として2011年2月に転職をしてわずか1ヶ月足らずのときの出来事でした。
そのときは、ユーネット社が移転前の雑居ビルの中。
私は外出していなくて社内にいました。
最初はちょっと揺れの大きな地震が長く続いてるなぁ、くらいの感覚でした。
それが急に恐ろしいほど大きな揺れに変わりました。
社内のPCやモニタが大きく揺れ、「これはまずい」と本能が警笛を鳴らしている感じでしたね。
そこから、会社は帰宅命令が出ました。
電車はもちろん止まっているから、両国から秋葉原まで徒歩で行きました。
もちろんどの電車も動いていないし、タクシーの乗り場は長蛇の列。
列の外からタクシーを捕まえる人間もいて、ただ並んでいるだけでは乗ることはできないことはわかりきっていました。
とりあえず、電車は動かないであろうからできるところまで歩いて帰ろうとしました。
途中で喫茶店に入って、ここで朝までいればいいかと思いましたが、店舗側が締める決断。
寒空の下にまた戻ることになりました。
このまま歩いて帰れる力はなく、仕方なく秋葉原に戻ることにしました。
当時はタバコを吸っていたので、中央改札付近の喫煙所に行くと、そこを朝まで開放するということで、ちょうど空があったので入り込み、朝まで待つことにしました。
これで、寒さからは逃れることができました。
ニュースでは、東北の津波の模様が流され、この世の終わりのような雰囲気が立ち込めていました。
メイド喫茶も開放して、お店に入れるようにと事前的な活動を急遽行ったりと、できることをやる方々も瞬間瞬間でおりました。
夜が明けても、電車は動かず、昼になってやっと動き始めましたが、秋葉原に電車が到着する頃には満杯。
乗れはしない。
それでも何本目かに乗り込みました。
徹夜で、しかも足が棒のようになっている状況で、駅に就けばつくほど満杯の社内にどんどんと人がなだれ込んでくる。
立っているのも限界で、途中の駅で何とか降りました。
そこからどうしようなんてことを考える余地もなかったです。
なんとなく改札を出て、知らない町をとぼとぼ歩いていると、目の前から偶然「空車」のタクシーが走ってきました。
急いで手を挙げてタクシーを止めて、乗り込んで自宅へ帰りつくことができました。
これが私の震災当日と翌日です。
3月11日は金曜で、3日後の月曜になっても、新幹線以外、在来線は完全に復旧をしていませんでした。
私は新横浜まで時間をかけて歩き、新幹線で東京まで行き、そこから歩いて両国、ととてつもない通勤をしていました。

ITという視点のあのとき

実は2011年はそこまでまだSNSの普及はしていませんでした。
ただ、あの震災で電気も止まったり、家を失ったりして、ニュースを見ることもままならない。
リアルタイムで情報を入手することが難しくなったわけです。
そこで、TwitterというSNSへの登録者が増大することになったわけですね。
また前代未聞なことっぽいですが、ニコニコ動画で、NHKが放映されているのを生放送で配信するということも行っていたようで、NHK側もそれを緊急事態のために認めていたようですね。
国民がSNSなどを新しく利用し始めること、既存のプラットフォームをいかに利用して情報を伝達するか、というのを考え始めたわけですね。
私は仕事柄、顧客との打ち合わせがあるわけですが、あの当時から、特に物理的な移動もままならない現状で、行く来るなんてことをせず、skypeで遠隔で打合せをすればいいじゃん、ということを言い始めました。
それに乗ってくれる大手企業の方々もいれば、これまでのように「顔を突き合わせてなんぼ」という方々もおりました。
加えて、こういった技術を利用して出社をしなくなる時代がやってくるから準備がそのときが来る前に必要だ、とも言い始めたものの、肯定的な人間は誰もいませんでした。

危機管理の薄さ

それもこれも危機管理や危機意識が薄いということに他ならないからです。
原発が何があろうと安全だ。
日本以外の諸国民は正義と秩序を愛する人たちであると手放しで信頼する(日本国憲法前文の解釈)。
何かあったときに「想定外だった」で済むわけがない。
有事に備えて何を準備しておくか。
これは国もそうでしょうが、組織を束ねる人間としても考えておかねばなりません。
それによって、国であれば国民が、組織であれば従業員が苦しい思いをします。
コロナによって、今のテレワークが行われるのが当たり前になるとは想定はしていませんでしたが、どの道「こうなる」ことはわかっていたので、この事態になって瞬時に順応をしています。

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